やまやま倉庫

雑多な趣味を気ままに書き置きするブログです。

メモ:正しく嫌うということ ① 〜 嫌いなものを嫌う

ここ数年、物事を正しく嫌うことを目指している。例えば私は、調理法の違いによってネギを、美味しく食べられたり不味くて食べられなかったりする。不味いと感じるときの不快感は主に、ひと噛みで咀嚼しきれないことと、植物の水分にある独特の甘みからきているらしい、と分析できた。これに類似して、白菜など葉物野菜の芯の部分がひときわ苦手なのも、同じ理由かもしれない。自分は白菜が嫌いだと認識しているが、実は芯以外はそんなに嫌いではない可能性も、あったりなかったり。

この手続きで私が白菜嫌いを克服したような訳では一切なく、依然として嫌いなままなのだが、人に同様の手続きをしたときには明確な利点があった。

以前の私には、”頭の悪い人が嫌い”だとか、”何も行動せず不平不満を抱えるだけの人が嫌い”だとか、そういう基準がやたらとあった。たぶん私は、人を嫌うという行為にエネルギーを消耗するタイプなのだ。かつて周りに嫌いな人が溢れていた時に、消費エネルギーを節約しようとして、こういうラベリングによって、個人を嫌うことから目を逸らしたのだろうと思う。しかし歳をとるに連れて、自分の周りには好きな人が増えていった。そうなってもかつての基準は健在で、結果として、「好きな人なのに嫌いな人」を生み出す事態になってしまった。これは大変エネルギーの消耗が激しく、ずいぶん長いこと損失を生んでいた思う。ここで上記の手続きが活躍する。

基準制から一度離れて、人の中に好きな部分と嫌いな部分があることを認めた。それにより、私はこの人のこういうところが嫌いなだけで、その人のすべてが嫌いな訳ではない、という着地点ができた。好きな人を好きなままでいられるのは心地が良かった。そしてこれだけに止まらず、「嫌いな人」を「嫌いなところがある人」に緩和することができた。これが本当に便利で、人を嫌うことで消耗するエネルギーが格段に減った。今年度のインフルエンザ感染数くらい減った。接客業のアルバイトをしていたときなどは特に、この差分のおかげでなけなしの精神力をずいぶん保護することができたと思う。基準を設けて人をラベリングすることは一貫性があるようだが不便で、嫌いなものだけが嫌いなのだという雑なルールのほうが優れていることに気づけた。

このような経緯で、正しく嫌うということを自分の中で目標に掲げ、難なく実行してきた。だがこの手続きにおいて、意図して避けていた対象があった。それは、自分を正しく嫌うという行為である。

長くなりそうなので一旦切って続きは明日書きます。今日は青汁飲んで寝る。