やまやま倉庫

雑多な趣味を気ままに書き置きするブログです。

【SS】梅雨の到来に先立って

時計の針が6時を指し、椅子にかかる背広や机上のコンピュータの明かりがまばらになった頃、私もオフィスを去る準備を進めていた。節電という名目のもと空調機器は未だその力を振るわず、じっとりと汗ばんだシャツが心地悪い。

上司からちょっと、と呼びめられ、そこのポストにと封筒を渡される。誰が出しても同じじゃないかと、文句のひとつも言いたくなるのを飲み込んで、建物の外に出れば雨。上司への恨みをひとつ強いものにしながら、懐の傘を開いて駅へと向かう足を出す。

最寄りのポストは駅からほど近く、差し詰め職場からもたいした距離ではない。そそくさと目の前のカラフルな傘の群れをかき分け、細い路地にかかる角に目当ての赤い四角を捉えた。鞄の中身も封筒も濡らさないように慎重に、茶色い四角をポストの中へ収める。早々に踵を返し、元の大通りへと足を戻す。

と、その時、真横を駆け抜ける質量が左肩を掠めた。自転車を漕ぎながら構えられた傘が、持ち主の顔を見せることなく色とりどりの中に消えていってしまう光景を、ただ眺めることしかできずに立ち尽くした。

あぁ、なんてことだ。使用7年目に差し掛かる折りたたみ傘は、屑篭に放り込まれる丸められた紙のように、その骨の根元をひとつひしゃげて、大粒な雨滴の到来を易々と許していたのだった。戸惑いと、憤慨と、ただ溢れ出る感情を、決して雨は流してくれなかった。

「寒っ」

思わず声に出して、呆けた体に鳥肌が立つのを覚えた。思うことは多々あるが、風邪を引いてはいけない。明日の仕事を欠いては困る。今やもう畳めない傘だったものを小脇に放り込み、すぐそこの駅へ向かって足を投げる。駅前の傘の群れは、弾いた水滴が街に照らされて、憎たらしいほどキラキラと輝いていた。

電車で通勤しているとは言え、その乗車時間は短いもので、したがって降車後も、雨は表情を変えずに地面を強く叩いている。14年目の結婚記念日に妻から贈られた傘を失い、安易な気晴らしの手段に駅前の立ち飲み屋を選ぶ。酒の力で遠慮を捨てて、店主に嘆きの言葉をぶつける。嗚呼、我が愛しのアンブレラ、もうこの身体を守ってくれないのか。喧騒の中に身を置いて、せめて心だけでも晴れてくれればとグラスを傾けるも、胸の内には依然として厚い雲がかかっている。時間が経てば経つほど、不躾な自転車への憤りよりも、意外なまでに激しい喪失感が降り注ぐ。店主のご厚意で、店に忘れ去られたビニール傘を譲り受け、乾きを知らない足にもう一踏ん張りしてもらうことにする。

風雨に曝される余所者のビニール傘はどうにも心許ない。実のところそれがただ思い込みで、普段使いの傘より何物をも信頼できていないだけ、なのだとしても、やはり量産されたビニール傘などにこの身を預けるのは如何とも安心を得難いものだった。道を行く足取りが重いのは、水を吸った靴下の自重のせいだけではないだろう。あるいは少々煽った酒のせいであったとしたら、もう少し晴れ晴れとした面持ちを抱えていたいものである。家までの道のりはいつもよりいくつか長く、つまらないものに感じられた。透明なビニル越しに浴びる街灯の光が嫌に眩しい。時折隣を追い越していく何でもない傘にさえ、嫉妬に似た嫌な感情がじわじわと湧き出してくる。

ようやく家の戸を拝むことが出来た頃には、重苦しい喪失感も、未知の傘への不安感も麻痺していた。そのまま惰性で玄関へと上がり込めば、帰りを待っていた妻の姿が。濡れた背広と鞄を取り上げられ、替わりに与えられたタオルはふやけた足を暖めた。今日は遅かったのねと、無機質に問われ、あぁ、とだけ返す。息子が上京してから2年が経って、広く持て余した我が家は小さい声をよく通した。

ふいに妻が、奥から小さな箱を持ち寄った。

「そろそろ傘、替え時なんじゃないかしら?」

最近のものはいろいろあるのねと言いながら、新しい折りたたみの傘を差し出してきた。あぁ、こいつには敵わないなと、口の中で消えていった声を反芻しながら、ありがとう、と今度は確かに声に出して。思えば妻にもらったものが使えなくなったのはこれが初めてだ。いや、靴下に穴が開いたのが先か。それは至って些細な問題で、継ぎ接ぎの靴下も真新しい傘も、次はもっと長持ちさせなければな。と、決め込んだ心は、どんな良質な酒を飲んだ後より澄み渡っていた。

ふとテレビ画面に目を落とせば、明日の天気は曇りのち雨。本格的な梅雨入りを前にして、私の労働意欲は足早に、真夏の空に立ち上る入道雲のように、無垢な純白が胸を満たしていた。

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小説一作目です。感想などあればコメント頂けると嬉しいです。